シミュレーションにもとづく社会的意思決定支援
現実社会のしくみや制度を分析・設計したり,社会的課題の対策を考案することは難しい.社会は巨大複雑システムであり,個々の要素の細かな相互作用によって全体の様相が大きく変わるためである.分析・設計や問題解決に役立つさまざまな社会システム理論は構築されているが,高度に抽象化された理論だけでは現実社会の細部や動的な挙動を捉えきれない可能性がある.また社会実験は重要であるが,実験を繰り返すことは時間や費用,ときに安全性の観点から現実的ではない.そこでわれわれの研究室では,社会シミュレーションの新たな手法を開発し,これを活かして社会の問題解決に取り組む.
社会の分析・設計や問題解決にシミュレーションを活用するためには,社会現象の複雑系ダイナミクスの理解とモデリング,それにもとづく高精度な予測が必須となる.研究室では,①対象となるシステムの特徴を十分に吟味し,②システムの本質をなす人々の挙動を適切な解像度でモデル化することによって,③解くべき問題に適合したシミュレーションの構築および高度化と,④現実の問題解決を指向した応用研究を進めている.
現行の社会システムに新たな政策や技術を導入しようとする際,政策や技術が真に有効かどうか,あるいは,導入効果とは別のリスクが発生しないかどうかについて慎重に検討する必要がある.現実をよく再現するシミュレータがあれば定量的な予測は可能であろうが,それが社会的意思決定に直結するわけではないことに留意する必要がある.社会システムを実際に変えられるのはその社会に関与するステークホルダであり,社会シミュレータではない.われわれはシミュレーションの研究者として,ステークホルダの合意形成の場に定量的なシミュレーション結果を提示することを通じ意思決定を支援することを目標に掲げる.一連のプロセスを通じて合意可能なシナリオが発見されれば,それが社会に実装され,合意された社会状態が実現する.
社会システムモデリング
社会のような巨大なシステムを理解しようとするとき,そのシステムを構成する要素に分解し,分解された要素を観察することによって全体を理解しようとするアプローチが通用しない場合がある.たとえば人間は社会の構成要素であり,器官は人間の構成要素であり,細胞は器官の…,と考えると,最終的には素粒子の世界にまで辿り着く.しかし仮に素粒子の挙動が理解できたとしても,社会全体の様相は理解できない.このように,構成要素の局所的な相互作用により全体の大域的な性質あるいは振る舞いが生じるが,全体としての性質や振る舞いが個々の構成要素からは明らかでないようなシステムのことを複雑系と呼ぶ.また,複雑系のうち,構成要素が周囲や全体の状況に応じてその振る舞いを変化させるシステムを複雑適応系と呼ぶ.研究室ではネットワークモデルやセルオートマトン,マルチエージェントシステムなどを駆使して複雑系あるいは複雑適応系である社会システムのモデル化にチャレンジする.
社会シミュレーションのモデルは解像度の低い順にアブストラクトモデル,ミドルレンジモデル,ファクシミリモデルに分類できる.アブストラクトモデルは単純な構造ゆえに計算量が小さく,計算資源が限られた状況であっても比較的大規模なシミュレーションが可能である.ファクシミリモデルは特定の状況に限定された社会現象を忠実に再現するが,計算量が大きく,アブストラクトモデルと比べると大規模なシミュレーションが難しい.また,社会現象の理解のためには余計な要素を削ぎ落としたアブストラクトモデルが適しており,予測・設計のためには現実世界のさまざまな要素を組み込めるファクシミリモデルが適している.多様な社会現象を高精度に予測し社会的意思決定を支援するためにはファクシミリモデルを用いた大規模シミュレーションを実現したい.このような考えのもと,並列計算に代表される高性能計算技術の応用によるシミュレーションの効率化・計算資源の制約の緩和,および,それと並行してアブストラクトモデルとファクシミリモデルのハイブリッド化による,着目領域への高解像度モデルの選択的な適用に関する研究などをおこなっている.
微視的交通流シミュレータの開発と応用
大規模性と精緻性を兼ね備え,交通現象の多面的な解析・予測に適用可能なマルチエージェント交通流シミュレータ "ADVENTURE_Mates" の開発をおこなっている.交通現象を過度に単純化することなく,人間の知的な振る舞いをモデル化するのがADVENTURE_Matesの特徴である.
ADVENTURE_Matesにおいて知的エージェントとして実装された車両は,自身の周囲の環境を自律的に認知・判断し,次にとるべき行動を決定する.行動とは環境への作用であるが,他の車両エージェントも同時に環境に作用することで,環境を介した車両間の相互作用が生じる.車両間の相互作用は一般的に局所的な現象であるが,総和として渋滞などの複雑で大域的な現象が創発する.
先進的なシミュレーションモデルを開発することが研究の重要なアプローチの1つであると同時に,現実の交通システムを想定したシナリオに開発したシミュレーションモデルを適用することで,現在発生中の,あるいは近い将来に発生しうる交通問題の抑制・解決をめざす.
ハイブリッド交通流モデル
交通現象の中でも典型的な渋滞の形成と解消に着目する場合,車両密度の低い自由流の状態と車両密度の十分に高い渋滞流の状態では,個々の車両の挙動が交通全体の流れに大きな影響を与えない.一方で自由流から渋滞流,渋滞流から自由流への遷移領域では,個々の車両の挙動によって渋滞の形成や解消が早くなったり遅くなったりする可能性がある.遷移領域に高解像度のファクシミリモデルを採用し,それ以外の自由流と渋滞流の状態ではアブストラクトモデルを採用するというハイブリッド交通流モデルを構築してシミュレーションの精度を維持したまま計算効率を向上させた.作成したモデルを用いて交通システムの設計を支援する.
歩行者交通・混合交通
道路交通の主役は自動車だけではない.道路空間の再配分,交通安全,災害時の避難を考える場合には歩行者交通を考慮する必要がある.公共交通機関の乗り継ぎも歩行者交通である.既存のSocial Force Modelの活用や計算の精度と効率性を両立するExtended One-dimensional Pedestrian Modelの提案などにより群衆流のシミュレーションに取り組んでいる.また,歩行者モデルと自動車モデル,さらに自動車モデルから派生した路面電車モデルを組み合わせ,歩行者-自動車混合交通シミュレーション,歩行者-自動車-路面電車混合交通シミュレーションを実現し,地方自治体と協力して都市空間の再設計に貢献している.
(赤,青,黒の四角形がそれぞれ自家用車,バス,タクシーを表し,橙の四角形が路面電車,緑の点が歩行者を表す)
世帯と都市のダイナミクス
都市では交通 (短期的な人の移動)と移住 (長期的な人の移動) の相互作用によってある種の構造が生まれる.交通流シミュレータだけでなく,世帯や都市の動態を表現するシミュレータを構築し,都市計画の評価やエネルギー消費動向の解析をおこなう.スマートシティ実現への貢献も目的とする.
シミュレーションによる世帯の動態を表現するために,世帯をエージェントとするマルチエージェント世帯動態シミュレーションを提案した.住民の状態は世帯の属性として表現され,各シミュレーションステップにおいて確率的に推移する.出生率や婚姻率,転入率などの実データを与えることで,都市の世帯数の推移や世帯種(単身世帯,夫婦と子供世帯,三世代世帯など)の構成比を精度よく再現できる.
("actual data" および "census" が実データをあらわす)
都市内に存在する世帯エージェントが土地区画と価格と魅力の影響を受けて居住地を選択するような居住地選択シミュレーションも研究対象である.土地区画の魅力は学校や病院など都市機能施設へのアクセシビリティによって定義されるが,子供のいる世帯は学校へのアクセシビリティを重視する,自家用車保有世帯とそうでない世帯のアクセシビリティは異なるなど,エージェントの個性が反映される.結果として,三世代世帯が居住しやすい地区,単身世帯が居住しやすい地区など,地区の特性を表現できるようになる.